あの夏の最後の日

深く遠く濃い青空の裾野の一角に、輝くような白い雲が盛り上がっていた。彼女は何冊かの本を持ってテラスに出て、目を細めた。
「典型的な夏休み」
そう言って、眩しい空を見上げたまま目を閉じた。目蓋の裏が薄いオレンジ色であることを確かめていると、陽射しのせいで目蓋がすぐに暖かくなっていくのを感じた。本を胸に抱え直し、目蓋の表面に感じるその温度の具合と、目蓋の裏側に感じる不思議なくすぐったさを少し楽しんだ後、視線を正面に戻し、目を開けた。
伸びた芝生の向こうに白樺の林が広がっている。彼女は何度か瞬きをしながら、視界の景色からハレイションが抜けて行くのを待った。景色が正常な色調に戻ると、テラスにある椅子に腰を下ろし、テーブルの上に数冊の本を置いた。


午後2時。蝉時雨が止んでいる事に気付いた。ついさっきまで、うるさいくらいに聞こえていた、蝉の声がしない。しばらく彼女は、夏草の匂いと眩しい陽射しに包まれて、耳を澄ました。世界から取り残されたような切なさが胸の奥から沸き上がって来た時、ツクツクボウシが鳴き始めた。その暑い沈黙は、ほんの数秒だったかもしれないが、5分程続いたようでもあった。しかし、それは長くても数十秒だったに違いない。沈黙の後、彼女は大きく息を吐き、その間だけ息をするのを忘れていた事に気付いたから。彼女は椅子から立ち上がり、さっきよりもうるさくなった蝉の声に背中を向けて、部屋の中に入って行った。


あの夏の最後の日,YOU ARE SO BEAUTIFUL,ジョック・スタージス,ジョー・コッカー,ケニー・ロジャース


高原の別荘に彼女はひとりで来ていた。それは大学時代からの友人の別荘だった。数年前に友人両親は事故で亡くなり、遺産としてこの別荘を受け継いだ。
以来、夏になると彼女は友人とともにこの別荘を訪れ、夏の数日間を過ごしたのだった。しかしその彼女は去年、結婚して夫の海外赴任についていくことになった。その際、別荘を処分しようと思っている旨を告げられた彼女は、ふたりが戻ってくるまでの数年間、格安で借り受けることにしたのだった。こうして束の間の自分の別荘を彼女は手に入れた。


彼女が最初にした事は四季折々に咲く花を植えることだった。庭の周囲に彼女は色々な花の種を蒔き、特別に玄関の横には3m四方の小さなハーブ園を作った。ミント、バジル、ペインテッドセージピンク、クリムゾンクローバー、ナスタチウムオレンジ……。毎週のように掃除と花の手入れをしにこの高原にやってきては、できたてのハーブを摘み、お風呂に浮かべたり、ポプリを作ったり、お茶にして楽しんだりしていた。


彼女は冷蔵庫の中から、ミネラル・ウォーターの小さなボトルとハーブのストック用の壜を取り出した。壜の中には、鮮やかな紫の乾燥させた花が入っていた。マロウフラワーの花弁だった。
彼女は再びテラスに出ると、ミネラル・ウォーターのキャップを開け、壜の中から5つほどの花弁を取り出し、小さなボトルの中へ入れた。キャップを閉め、軽く振ると透明な水の中にゆっくりとブルーのマロウの花の色が溶けていった。彼女はハーブ・ティーの中でもこのマロウティーがもっとも気に入っていた。
風邪気味の時には咳を鎮める効果があると言われている。また、マロウは肌にも良いとされ、化粧水の代わりに使ってもいいらしいが、そんな効果よりも、色の変化を楽しめるお茶として彼女は楽しんでいた。しばらくすると、透明なボトルは鮮やかなブルーに染まった。


再び椅子から立ち上がり、持参したCDをステレオにセットしてから、キッチンに歩いた。買っておいたレモンを袋から1つ取り出 して、ナイフで2つに切った。半分のレモンにラップをかけ冷蔵庫に入れると、もう半分を小さな皿に乗せ、スプーンとともにテラスへ運んだ。さきほどよりも少し青さを深めた水だしのマロウティー。そのボトルのキャップを開け、花弁をスプーンを使ってすべて取り出し、皿に置いた。そしてレモンを握り、ボトルの中へ汁を注ぎ込んだ。鮮やかなブルーは一瞬にしてピンクに、劇的に色を変化させた。彼女は幸せそうな微笑みを唇に浮かべ、さらにレモン汁を注ぎ込む。すると、鮮やかなピンクは次第に薄くなり、最初の透明な水の色に戻ってしまった。


透明なボトルの中で夏の緑の景色が揺れている。ブルーからピンク、透明へと姿を変えたマロウティーを彼女は飲んだ。ボトルを唇につけ、白い顎を夏空に向け、目を伏せ、蝉の声とCDから流れるケニー・ロジャースのけだるい声に包まれて。


彼女の、少し早い夏休みはこうして透明なマロウティーから始まった。それからテーブルの上の本の中から1冊の写真集を選びページを繰った。これはかつての恋人からプレゼントされたジョック・スタージスという人の『あの夏の最後の日』という写真集だった。
「結婚しようと思うんだ、彼女と。どう思う?」
「わからない。でも恋人だったのは高校生の頃の話だから」
彼は彼女にこう言った。かつての高校時代の恋人は、彼女の親友の夫になった。親友は夫と彼女の昔の恋を、もちろん知らない。
彼女は写真集の中の少女の瞳を見つめながら、未来を約束するその強い視線に応えるように軽く頷いた。
『YOU ARE SO BEAUTIFUL』最後の曲が流れていた。
あの夏の日、彼女は彼の素肌の背中越しにこのバラードを聴いていた事を思い出した。確かにその時はジョー・コッカーが歌っていた、と。彼女はため息をつき、哀しく微笑んだ。

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